会津若松城(鶴ヶ城)




記念すべき100名城ブログ第1号は会津若松城(鶴ヶ城)です。ずっと会津若松城と思っていましたが、正式名称は「若松城」のようです(日本城郭協会より)。

JR磐越西線(ばんえつさいせん)で郡山駅から約1時間で会津若松駅に到着。 会津若松駅からは市内を周遊する「ハイカラさん」と「あかべぇ」の2本のバスがぐるぐると周っているので、若松城の他にも白虎隊の飯盛山や武家屋敷などの観光スポットへもストレスなく移動できます。1回の乗車に210円ですが、確実に3回以上は周遊バスにお世話になるので、600円の1日フリー乗車券の購入がおすすめ。 詳しくは「まちなか周遊バス」をご参照ください。

「あかべぇ」

「ハイカラさん」

「ハイカラさん」のほうが座席がレトロで雰囲気がありました。お互いに逆回りなのでうまく乗り継いでみてください。

バスを降りると、若松城の天守がその存在感を魅了します。残念ながら1965年(昭和40年)に復元された鉄筋コンクリートの天守ですが、36.5メートルの高さがある天守はかなりの威圧感がありました。赤瓦と白い壁のコントラストが本当にきれいな天守です。五街道が集まる中心地にあるため、大きな天守が必要であったと某テレビ番組でも紹介されていました。

ちなみに、どうして「赤瓦」を使っているかというと、一般的に使われている瓦では冬の豪雪によって凍み込んだ水分が凍り瓦が割れてしまうため、鉄分を多く含んだ釉薬(ゆうやく)を塗ることによって瓦の破損を防いでいます。そのために焼き上がりが赤くなるそうです。

天守から見た「飯盛山」。城が焼け落ちたと思い込み自決したと言われている?白虎隊十九士の墓があります。言われている?と書いたのには理由があって、それは城で出会ったご老人のお話を聞いてしまったからです笑

ご老人曰く、「実際に自決したのは7,8人で、その他の隊士は城に戻っている」とのことでした。そのご老人は会津の出身らしく、飯盛山のガイドに「そろそろ本当のこと言ったどうだ」と諭したところ、ガイドに「商売の邪魔するな!」と怒鳴られたそうです笑笑 とにかくそのご老人のお話が面白くて30分ぐらいずっとお城の外堀付近で歴史の講義を受けていました。「あそこにいるのは野生の鵜だよ」とか「このジグザグの石垣が特徴だよ」とか「干飯櫓の扉は今日特別に開いている」などなど。その御蔭で、その後の飯盛山見学はある意味違った感覚で見ることができました。頭の中は疑いの念でいっぱい。それがまた面白くて、何件かあった白虎隊記念館もスルー。せっかく来たので、山頂まで登り、自刃の地をお参りして帰ってきました。

有料のエスカレーターがありましたが、そんなに長い距離ではありませんので、ゆっくりと階段を使って上がってみてはいかがでしょうか。

ごめんなさい。記念館はスルーさせていただきました。自刃の地から会津若松城を探しましたが、よく分かりませんでした。当時は大きな建物もお城くらいですからはっきりと見えたのでしょう。すみません、完全に悪意を感じさせる表現かもしれません笑 そんなつもりはないのですが、ご老人のお話のインパクトが強すぎて。

飯盛山を下山する途中に国指定重要文化財の「会津さざえ堂」があります。江戸時代に建てられた変わった形の仏堂で、内部は螺旋階段になっています。

飯盛山のあとに武家屋敷も見学しましたが、機会があればご紹介させていただきます。

なんだかんだで1日がかりの会津若松ツアーでしたが、天守の外観の圧倒感とご老人の講義が非常に印象に残った楽しいツアーとなりました。※いきなり痛恨のスタンプ押し忘れ。いつかまた行こうと思います。

ピンぼけでよく見えません。

会津若松城の歴史的背景

1384年、葦名直盛(あしななおもり)がここに築城したのが始まりで、その当時はこの地を「黒川」といったため、「黒川城」または「会津黒川城」と呼ばれていました。これより会津若松城の歴史が始まります。

1580年代に入ると、隣国の米沢(山形)を治めていた伊達政宗の会津攻めにより約400年続いた葦名氏は滅亡します。しかし伊達政宗がこの城を治めたのはわずか1年ほどで、その後は織田信長に認められ本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷(がもううじさと)が会津藩主として黒川城に入場します。これ以降、この地を「若松」と改められました。ちなみに、会津藩主となる前に松坂城を築城したのも氏郷で、「松阪」から「松坂」という地名に改めたのも氏郷です(明治以降、また松阪に戻された)。氏郷時代の大改修により、会津若松城は現在の姿に近いものになりました。

関ケ原の合戦の前、1598年に蒲生氏に代わり上杉景勝(うえすぎかげかつ)が120万石の領地を治め会津に入ります。理由としては、蒲生氏の跡継ぎが幼かったのと関東の徳川家康を東北の背後から牽制する意図もありました。が、その後間もなく秀吉は亡くなってしまいます。そして関ケ原の合戦で豊臣方西軍が敗北し、上杉家は30万石へと減石され米沢へと国替えとなります。上杉景勝についての面白い記事がありましたので、興味がある方は読んでみてください。

時代は徳川政権に入り、1627年に加藤嘉明(かとうよしあきら)が松山藩から会津藩へ転封(てんぽう、国替)され入城します。この時代に天守が五層になり現在の会津若松城の姿になりました。

その後、城主は徳川家光の弟・保科正之(ほしなまさゆき)になり、「松平姓」と「葵の御紋」を用いることを許され、幕末の京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)の時代まで松平家が会津藩を治めることになりました。

明治維新後は廃城となりますが、昭和40年(1965年)に現在の天守閣が復元されました。

会津若松城の基本データ
築城者 始まり:葦名直盛(あしななおもり)現在の姿:加藤嘉明(かとうよしあきら)
別名 鶴ヶ城(つるがじょう)
天守 復元天守(1965年)
アクセス JR会津若松駅より周遊バス(ハイカラさん、あかべぇ)
スタンプ設置場所 天守内売店

会津若松市近郊の観光スポット

  • 五色沼 「毘沙門沼」や「青沼」など磐梯朝日国立公園内にある湖沼をトレッキング。
  • 野口英世記念館 会津若松駅から磐越西線猪苗代駅まで約30分。
喜多方らーめん
会津若松城を見たあと、ラーメンを食べに喜多方まで。事前に口コミなどで調べてみたところ圧倒的に人気は「坂内食堂」でしたが、地元民ならではの人気店情報を信じて駅に到着後直行。駅を出て約10分ほど歩いたところ(近くに緑色の建物の病院があるのでそれ...
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